ウィニー裁判:大阪高裁の判断は人々に行動の自由を保障するに違いない。
今さらな感がありますが、大阪高裁のwinny開発者の無罪判決について、少々書きたいと思います。
国民の司法参加が叫ばれる今日にあっては、なるべく平易な形で法律解釈の説明をしたいと思います。
ウィニー開発者に逆転無罪
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/091008/trl0910081009002-n1.htm
1.winnyを用いた著作権侵害は後を絶たない。
2.しかしながら、winny自体は有用なソフトであって、十把一絡げに著作権侵害を幇助するためのソフトだと考えることはできない。
3.winnyによる著作権侵害の実態はまだ客観的に明確な形で把握されているわけではない。
4.被告人(金子さん)は、winnyというソフトを不特定多数に提供したに過ぎない。
5.winnyをいかなる形で、いかなる用途に用いるかは、ひとえに利用者個人の選択に委ねられており、被告人は利用者の意思を把握し、それを統制する立場にはない。
マスコミは被告人が「違法コピーを手助けた」という前提で報道をしていますから、つい被告人は違法コピーを奨励したかのように思えるかもしれませんが、それは一つの思いこみに過ぎません。
大阪高裁の判断は、罪刑法定主義(犯罪と刑罰はあらかじめ法律で定めておかなければならない)に適う至極まっとうなものだったと考えます。
どこからどこまでが違法なのか、これが明確になっていないと自由な生活を送ることができません。だから、犯罪が成立するためには、何が必要なのか、一般国民が分かる形で明確にされていなければなりません。それが罪刑法定主義の根本精神なのです。
本件でも同じことがいえます。著作権侵害に使われているソフトを作った者が、どこまで責任を負わなければ行けないのか、どこから罪になり、どこまでが罪にならないのか、ということです。
大阪高裁は、被告人に罪が成立するためには、利用者に違法な形での利用を勧める認識で、ソフトを提供した場合にのみ、幇助犯が成立する、という判断枠組みを示しています。
そして、被告人が、提供したwinnyが違法に利用されるかもしれない、とは認識していたが、違法な利用を奨励したわけではないので、罪は成立しないのだ、と考えたようです。
いわゆる幇助犯というものは、実際には処罰範囲が不明確です。どこまでが犯罪の手助け(幇助)をしたのか、必ずしも明確ではないことが多いのです。
大阪高裁の判断は、そうした処罰範囲の明確化に資するもの、と言うことができるでしょう。
どこまでが犯罪なのか、犯罪でないのか。これを明確にすることは、人々に行動の自由を保障することになります。
これまで幇助犯として広く処罰されてきたものを限定していこうとする、裁判官の法律家としての良心を感じます。
国民の司法参加が叫ばれる今日にあっては、なるべく平易な形で法律解釈の説明をしたいと思います。
ウィニー開発者に逆転無罪
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/091008/trl0910081009002-n1.htm
まず、この事件のポイントをおさえておきましょう。ファイル共有ソフト「Winny(ウィニー)」を開発・公開してゲームソフトなどの違法コピーを助けたとして、著作権法違反幇助(ほうじょ)罪に問われた元東大大学院助手、金子勇被告(39)の控訴審判決公判が8日、大阪高裁で開かれた。小倉正三裁判長は、罰金150万円(求刑懲役1年)とした1審京都地裁判決を破棄、金子被告に無罪を言い渡した。
ウィニーをはじめとするファイル共有ソフトを用いた著作権侵害は増え続けており、開発者の刑事責任を認めるかどうかが注目されていた。1、2審を通じた争点は、ウィニーの開発が著作権侵害目的だったかどうか、面識のない利用者の違法行為に対するソフト開発者の幇助罪が成立するかどうかの2点だった。
1.winnyを用いた著作権侵害は後を絶たない。
2.しかしながら、winny自体は有用なソフトであって、十把一絡げに著作権侵害を幇助するためのソフトだと考えることはできない。
3.winnyによる著作権侵害の実態はまだ客観的に明確な形で把握されているわけではない。
4.被告人(金子さん)は、winnyというソフトを不特定多数に提供したに過ぎない。
5.winnyをいかなる形で、いかなる用途に用いるかは、ひとえに利用者個人の選択に委ねられており、被告人は利用者の意思を把握し、それを統制する立場にはない。
マスコミは被告人が「違法コピーを手助けた」という前提で報道をしていますから、つい被告人は違法コピーを奨励したかのように思えるかもしれませんが、それは一つの思いこみに過ぎません。
大阪高裁の判断は、罪刑法定主義(犯罪と刑罰はあらかじめ法律で定めておかなければならない)に適う至極まっとうなものだったと考えます。
どこからどこまでが違法なのか、これが明確になっていないと自由な生活を送ることができません。だから、犯罪が成立するためには、何が必要なのか、一般国民が分かる形で明確にされていなければなりません。それが罪刑法定主義の根本精神なのです。
本件でも同じことがいえます。著作権侵害に使われているソフトを作った者が、どこまで責任を負わなければ行けないのか、どこから罪になり、どこまでが罪にならないのか、ということです。
大阪高裁は、被告人に罪が成立するためには、利用者に違法な形での利用を勧める認識で、ソフトを提供した場合にのみ、幇助犯が成立する、という判断枠組みを示しています。
そして、被告人が、提供したwinnyが違法に利用されるかもしれない、とは認識していたが、違法な利用を奨励したわけではないので、罪は成立しないのだ、と考えたようです。
いわゆる幇助犯というものは、実際には処罰範囲が不明確です。どこまでが犯罪の手助け(幇助)をしたのか、必ずしも明確ではないことが多いのです。
大阪高裁の判断は、そうした処罰範囲の明確化に資するもの、と言うことができるでしょう。
どこまでが犯罪なのか、犯罪でないのか。これを明確にすることは、人々に行動の自由を保障することになります。
これまで幇助犯として広く処罰されてきたものを限定していこうとする、裁判官の法律家としての良心を感じます。